イングリット・ヴェーバー 自作について語る




私の作品論というのは、そのまま、私が何に魅了されているのかを語ることです。

存在があるということを、それにいかに魅了されているかということですけれども、
そういった魅了というものから、私は様々な生きるすべを得ています。
敏感さとか、好奇心をそれによって駆り立てています。

それをどのように続けないといけないか、というのは、私にとっては、問いを発し続けることです。

特定の色の色調がどのような刺激を与えてくれるかということがあります。
たとえば、自然のなかで見いだしたり、あるいはコーヒーの粉の色、そのなか、自分が汚してしまったタオル、
そういったもののなかに見られるような色調というものがあって、
それによって、何かを見たいという欲求が私にわいてきます。

この問いかけに対する答えは、探求を続けて、探求を求める、その姿勢だ、ということです。

そのために、私は「個人的に色とコミュニケーションをとろう」といったことに挑んでいます。
これはふたつ、私と色、この対等な両者の対話です。私と色の素材 (Farbmittel) との対話です。

私は色の素材をどんな条件でいかに用いれば、ペインティング上で、どういう現れ方になるかということに、
ある程度知識と経験を積んできました。

そしてその色自身がこの対話に、いかにせよという身を投げかけてきます。
たとえば、その光、重さ、メジウムとの振る舞い、そういった色のアイデンティティーの一部が
自らをいかに扱うべきかを私に語りかけます。

私は最初、色から刺激を受けます、そうすると、この色のピグメントのミックスから
どんな色調を出せるか、どのような正確な色調を出せるか、という作業にとりかかります。

といっても、これからどんな絵や、どんな絵が表面を生み出せるか、それが生まれて育つかという
究極のアイディアというのは、残念ながら、まったくありません。

そして、新たに得たパートナー、色というパートナーともっと親しもうとして、
私はカラーピグメントと一番直接触れられる方法を用います。

その重さ、素材の物質そのものを手のなかに入れ、本当に手を用いて感じなければなりません。

このやり方が、私がここにあるピグメントワークス、それを生み出す方法です。
他の作品とも同じですが、どのようなできになっているかというのは、総て同じで、
まずどのような底地をつくるか、そしてテンペラにピグメントをどう混ぜたか、
そして油にどのようにピグメントを溶いたか、そしてこれらのピグメントがどんな表面を生み出すか、
というのが私のピグメント作品のそのままの姿になります。

このなかに、ヴァリエーションというのは、ただ単に、基礎に塗った油と、その上の各部分との関係が
どのように変わっているか、ということだけに過ぎません。

メジウムの違いによっても、見た目は変わります。
といっても、存在そのものは決して変わりません。

私が意図するのは、これを正しく見つけだして、
それを目に見えるように、可視化することです。

そのために、私の画家としての両手と、アーティストとしての魂が
カラーピグメントとの可能性との対話をずっと続けています。

それにより近づいて、一番正確なアイデンティティーというものに達するために、
あらゆる色調を生み出し、保有する、ということが私の目標です。

私は多くの決断を迫られます。
例えば、白色の反射を加えることなく、油彩の表面から反射がどの程度生まれるようにしたら良いか、
それから、作品のモノカラー、単色である印象をこわさずに、どれだけ続けられるか、
そういったことについての感覚があります。

ピグメントが、油にいかなる反応をするか、ということに私は従って、キャンバスの上に
色の素材を運んでいきます。

このピグメントの精神状態と私が対話するなかで、私が残した軌跡、それが私の仕事です。

このすべての異なったピグメントの層は、永遠の層にまで成長し、それを超えていきます。
これは、色と私が、互いを利用し、互いを気遣うという有機的なプロセスです。

私の絵画のプロセスは、その絵自体が目指している意志、それによって決定されています。
つまり、その決定される瞬間はつねに驚きの瞬間であり、突然訪れる瞬間であり、また、絶対的な瞬間です。
今日準備しようと思っていた、制作中の作品に背をむけて、また作業にもどってくることがあります。
するともう突然、ああ、この絵はもう手がつけられない、もう作品がそこにある、ということがあります。

作品には、つまりもう、その時には個性が生まれています。
個人の人格としての個性が生まれて、しかもその個性は壊さない限り、手を触れることができません。
しかし、それでも良いのです。白をわずかに加えないと私が満足しないこともありますが、しかし、
それも私は全部受け入れて、そこに出来上がった作品が私の前に誕生します。

この生まれ出す新しい存在をどのように理解しようか、という興味が私にはどんどん増しています。
良い影響を受けようとするとする良いすべは、私が考える動機にしたがって、
新しいスタートを、また新しい地点からはじようとすることです。


イングリット・ヴェーバー

2002年9月7日 タグチファインアートに於けるスピーチ(訳 前田智成)