イングリット・ヴェーバー 自作について語る 2あなたの作品はどんな作品ですかと尋ねられた時、私は大抵「私は画家です。私はひとつの色でひとつの絵を描きます」と答えています。 私は、そうした果てしない空間に身を置いて、私の研究、仕事、探究、そして問いかけをしています。 私は、色調(カラートーン)の現れかたにのみに集中します。その他の付加的なものは、すべて私をいらだたせ邪魔するものでしかありません。 私の絵には形も対象も線もありません。私の絵は色と光についてのもので、それが総てです。 色調の現れと観る人とが身体的に出会うための空間を構成しようと素描をしますが、その結果、様々な大きさの作品が生まれます。 或るひとつの色調についての探究に基づいて、それを何種類かの大きさで試したい、という私がいつも抱いている関心から、一連の作品制作が始まります。 総ての作品は、異なったそれぞれの存在を見たい、という私の思いによって生まれます。 特定の色について研究しようと決めるのは、或る色調の明確な現れかたに強く惹きつけられる自分に気付いたときです。 新しい仕事を始めるとき、最初にすることは、その色に対して私が最初に感じた霊感によく似た現れ方をする、顔料の新しい調合を見つけだすことです。 ときには、実際にはそこに存在しないのに、自分の感覚が刺激されるような色を見ることもあります。 これが自分が思い描いた作品に会いたい、という私の切なる願いを通して導かれる、私の仕事の始まりです。 私は、たとえば、この色調が絵の具という物質によって実現されることを通して可能になるような、光と反射のスペクトルを研究することができます。 私の絵の表面の構造は、ほとんど、私がどのようにそれを作りあげたかという、単純に物質的な手順の結果に近いといえます。 伝統的な絵画技法は、色、メジウム(練り剤)、下地、という3つの基本的な要素に基づいています。 私はこれら3つの要素を、色のもつ特徴の効果を支えるような、一種の均衡の状態にしたいのです。それを私の絵におけるコンポジションと呼ぶこともできるでしょう。 私は、どうにかして、これらの要素それぞれに残されている未開拓地の近くまで行こうとしてきました。 私はいつも、できるだけ多くの顔料と、できるだけ少ないメジウムによって作品を作ろうとしています。なぜなら、これら3つの要素間の本質的なバランスを保つためには、メジウムは絶対的に最小限である必要があるからです。 メジウムによる妨害を極小にして、純粋な色調を生み出そうと試みているのです。 選んだ顔料の調合それぞれのメジウムに対する反応の違いが、おおよそ、私の作品の表面の実際の見え方の違いの原因となります。 テンペラをメジウムとして使って顔料を固定する最初の層は、筆で描くことができます。しかし、ひとつの基本的な要素としての下地が或る均衡を保つためにも、新たな色の層にはメジウムとして油を使います。 私が色を準備するやり方は絵の具をとても目の粗い状態にするものなので、それ以降の層を作りあげるために、私はペインティング・ナイフを使わなければなりません。 顔料のメジウムに対する個々の反応が、私の絵画言語がどのようにして、特別な色調の最も強い自己表現を導くことができるかを私に命令します。 私の絵の表面は、それぞれが成長していく条件の結果によるものです。 私の探究においてとても重要な要件は、作品によって或る種の自由と冒険を可能にすることです。それらは、私の仕事の過程で加わります。ですから、私はこの特別な瞬間を知覚する準備ができています。作品の現れが、それ自身の権利と自由を獲得する瞬間です。 そのとき、そうした個性をもった表出を傷つけることなく仕事を続けることはできなくなります。その絵は既に出来上がっています。 おそらくこの瞬間の意味するところは、「絵画の目的は自由である!」ということではないかと思います。 芸術は霊感を刺激し、感覚を呼び覚ますことができるのです。 結局、観照者に何かを与えることができるのは、アーティストとしての自分ではありません。観照者自身が、絵画から、自分の必要とするものを得なければならないのです。そして、この意味において、作品の生命は観照者に依存しているのです。 私の作品は、新しい存在が現れ出ることによって完成します。 私自身の知覚のために絵画によって私が作り出す空間が、あらゆる人々に対して、直接的な視野への入り口を提案しているように見られるならば、私は嬉しいです。 ここで視野というのは、個々人の知覚空間において自分自身を感じるという視野です。 そしてもし、私の作品を 心の大胆な状態へ、未知の領域へと進んでいく提案として感じてもらえるのなら、それは素晴らしいことだと思います。 私は、芸術作品というものが、私たちの内的な生命に関して、大変重要なものであると信じています。 アメリカの画家、アグネス・マーチンは1974年頃、芸術における静けさ、静寂について、こう書いています。 「私たちが自分自身を作品のうちに知覚することができるならば、 つまり、作品を見る際に、そこに作品ではなく私たち自身を知覚できるならば、 その作品は重要である。 私たちが、私たちの反応を知ることができるならば、 つまり、私たちが作品から得たものを私たち自身のなかにみることができるならば、 それが、真実と総ての美とを理解する方法である。」 イングリット・ヴェーバー 2004年11月6日 タグチファインアートに於けるスピーチ |