サイモン・モーレイ 自作について語る



少し冗談めかして「近代日本文学小史」とタイトルをつけたこの展覧会は、約1年半前に、田口達也氏との緊密な共同作業により始められました。どんなプロジェクトを考える時にも私は、内容の点からも、作品がいかに物理的にその空間に展示されるかという点からも、その場に特有のものであるようにと考えています。今回の場合、最初様々な要素が議論されました。まず、私たちは明らかに、新しいプロジェクトが全体として、私の仕事に現れているテーマと継続性があり、それを発展させるものであることを望みました。そして、作品がタグチファインアートの空間に効果的にフィットするようにしたいと思いました。これは、実際には自分でスペースを見ていないために、私にとっては困難なことでした。さらに、私が日本で作品を発表するイギリス人アーティストであるという事実を反映させているテーマを見いだすことを望みました

それでは一般に、私の仕事の基礎をなすいくつかの問題とは何でしょうか?
まず、言葉とイメージの相互関係があります。この問題について、私は最近美術史の本も書きました。そして、見ることと読むことの比較。抽象芸術と概念芸術との関係、美学と近代芸術での実践面における知的な構成要素との関係。それに本の形態と絵画の形態との類似。ある時間をかけて作品を作るそのプロセスとそれが作品の知覚にどのように作用するかということ。イングランド人 (british-イギリス人ではなく、english-イングランド人という言葉を使いますが)であるという事実とそれが文化的に何を意味するかということ。文学と芸術との比較。歴史への関係と或る歴史的な伝統。ユートピア的な思考が日常生活の平凡な事柄に出会った時に生まれる皮肉、等々。

何と沢山の異なった事柄でしょう! でも試みさせて下さい。明確にさせて下さい。ここタグチファインアートで、皆さんは、少なくとも初めは、一群の同じサイズのモノクロームの表面を見つけるでしょう。しかしすぐに、それらがそれ以上のものであることがわかります。これらはすべて、20世紀と21世紀の日本の作家による小説の扉です。私が「ブックペインティング」と呼ぶところのものです。
これらの本は、日本の近代小説を概観する感じを出せるよう、田口氏との議論によって選ばれました。明らかにこれらは英訳であり、選ばれなかった著作もたくさんあります。
私はこれらの本を読んだのでしょうか? はい!当初から、選んだテキストを私と田口氏の二人で読むことが、このプロジェクトの重要な一部でした。結果として、私は皆さんの文学を、また翻訳の技術について一度に理解することができました。しかし、そのどちらについても、一般化したい誘惑には耐えようと思います。

どの作品も手作りです。色彩は、葛飾北斎のカタログに負っています。そして、本との何らかの関係から、また西洋で最もよく知られている日本美術である木版画との関係から選ばれています。
私は時々わざと色の類似における明瞭さを避けました。例えば、安部公房の小説を砂色にはしませんでしたし、吉本ばななの小説をバナナ色にはしませんでした。文字は背景の色から僅かにトーンを暗くしただけの色で描かれています。これは重要です。それは読むという活動の速度を遅くさせ、見るという行為と読むという行為の差異を曖昧にします。私はそれによって作り出される知覚空間に何が起きるのかということに興味があります。文字は浮き彫りのような触覚的な表面を創るために、何層も塗り重ねられています。このことも私にとって大変重要です。というのも、それは知覚の質に影響を与えるからです。

この展覧会の中心的なテーマは翻訳です。ある言語から他の言語への翻訳、ある文化から他の文化への翻訳というだけでなく、ある表現媒体から他の表現媒体への翻訳です。最後に、ゆっくり考えて頂くためにカタログに使った3つの引用をあげます。

1. 原典は翻訳を裏切る。
2. 言語内でも言語間でも、人とのコミュニケーションは翻訳に等しい。
3. 良い翻訳とは、ただの翻訳ではない。というのは、翻訳者が自分自身を通して原作を差し出し、原作のなかに自分自身を見いだしているものだから。


サイモン・モーレイ

2004年9月11日 タグチファインアートに於けるスピーチ