サイモン・モーレイ 「近代日本文学小史」


2004年9月11日-10月23日 タグチファインアート
































































 サイモン・モーレイは1958年イギリス、イーストボーン生まれ。1980年にオックスフォード大学マンスフィールドカレッジで歴史学を専攻(近代史)、1998年にはロンドン大学ゴールドスミスカレッジで芸術学修士を取得。ロンドンを拠点に作品を制作しながら、グラスメアのワーズワース・トラストやローマのブリティッシュスクールなど各地のアーティスト・イン・レジデンスにも積極的に参加しています。作品制作のかたわら「Chora (1999)」展や「The Wreck of Hope (2000)」展などの展覧会を企画、また美術史の研究書「Writing on the Wall - Word and Image in Modern Art, Thames and Hudson, 2003」を出版するなど、多彩な活動を展開しています。



言葉とイメージ

 或る単語を象徴的な字体(字体にはそれぞれ歴史的意味があります)で、キャンバスの上に散りばめて描いた作品、歴史上の人物の署名を拡大して壁に直接描く「署名ペインティング」、展覧会で使用される作品キャプション(ラベル)を肉筆で描いた「ラベル・ペインティング」、本の表紙あるいはタイトル・ページをキャンバスに描く「ブック・ペインティング」、実際に使用された絵葉書をキャンバスに描いた「ポストカード・ペインティング」、墓石の写真と単語とを組み合わせた作品、詩の一節を人々に発音させ、彼らの口元をクローズアップしてスローモーションで再現したヴィデオ作品、ユートピア・プレスという名で自ら出版する書籍など、彼の仕事は常に言葉とイメージとの関係を主題に展開しています。今回タグチファインアートで展示されるのは、ブック・ペインティングです。



ブック・ペインティング

 ブック・ペインティングのシリーズは、見ることと読むこと、すなわち直接的・感覚的な経験と認識・記憶との力学に関わるものです。取り挙げられる書籍の主題は、それらが発表される場所の文化的歴史的背景の特殊性や関係性を考慮して選ばれます。そして作品の背景・地に使用される色彩は、その書籍そのもの、その作品が制作される場所、シリーズ全体の構成などから、直観的に選ばれます。文字に関しては、そのレイアウトやバランスは原典に忠実に描かれますが、地と図の関係を曖昧にするべく、また知覚し判読する時間を引き延ばすために、背景の色よりも僅かに彩度を落としただけの同じ色彩が用いられます。
 2000年、ロンドンのパーシー・ミラー画廊での個展は『1984年』や『動物農場』、『カタロニア讃歌』など、ジョージ・オーウェルの著作の初版本のタイトルページをペインティングした作品で構成されていました。英国人であるモーレイが、ブックペインティングのシリーズを初めてまとまったかたちで、そしてロンドンの画廊で発表するこの機会に、主題としてオーウェルが選ばれたのは、彼こそが、芸術の理想や社会的役割という部分において、良い意味でも悪い意味でも、英国的な部分を代表する、非常に象徴的な存在であると考えられるからです。オーウェル作品にふさわしい色として背景色には白が選ばれ、その上に薄いグレーで文字が描かれました。モノクロームの抽象絵画という文脈も、この作品でモーレイが見る人に喚起したいものでした。
 翌年のイタリア、ピアチェンツァのゼロ画廊での個展「イタリアの休日」では、彼が故郷の古書店で見つけた老婦人のイタリア旅行のアルバムをもとに、『ローマ』や『ヴェニス』、『シエナ』、『ポンペイ』、といった、彼女がその旅行で訪れた都市のガイドブックのタイトルページをペインティングし、発表しました。オーウェルの著作の時とは異なり、ジェラードを想わせる様々なパステルカラーが背景色に使われました。



近代日本文学小史

 日本で発表する作品としてモーレイが取り組んだのは、英語圏で翻訳された日本の近現代小説をモチーフにしたブック・ペインティングです。さまざまな著作のなかから今回は、森鴎外「雁」、夏目漱石「こころ」、 芥川龍之介「羅生門」、谷崎潤一郎「卍」、横光利一「上海」、 川端康成「雪国」、三島由紀夫「愛の渇き」、 安部公房「砂の女」、 大江健三郎「万延元年のフットボール」、村上龍「限りなく透明に近いブルー」、遠藤周作「侍」、 吉本ばなな「キッチン」、 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」の13作品が選ばれました。
 実際にモーレイはこれらの小説を読み、葛飾北斎が作品に使用した色彩を参考に、それぞれの著作にふさわしいと思われる日本的な色彩を選んで使用しています。



翻訳 (translation)

 吉本ばななや村上春樹を挙げるまでもなく、近年日本の小説が出版後まもなく外国語に翻訳される機会が増え、ベストセラーとなることも少なくありません。文学に造詣の深いモーレイも、日常的にこれらに慣れ親しんでいます。
 しかしながらそこには、そもそも文学において翻訳は可能なのか、という問題が絶えずつきまとっています。言うまでもないことですが、ある民族の言葉を単純に他の民族の言葉に置き換えただけでは、優れた翻訳にはなりえません。ひとつひとつの言葉には、それぞれ民族特有の歴史的な意味があります。翻訳者には原作が描かれた文化的歴史的社会的背景を熟知することが求められます。そしてそれらを、文体が醸し出す雰囲気や行間に込められた想いを損なうことなく伝えなければなりません。私たちは、こうした文学の翻訳の困難さについては、程度の差こそあれ常に意識的です。
 ひるがえって、美術作品の場合にはどうでしょうか。視覚芸術は文学と異なり翻訳不要、言葉の壁を超えて理解されるものであると信じられています。しかし、それが幻想であることは、キリスト教美術の理解にイコノロジー研究が必要であることひとつをとってみても、明らかです。それでは純粋な造形言語による近代美術、また現代美術のは場合はどうでしょう? 音楽は? 建築は? 科学は? 政治は?・・・
 現代はグローバル化が推し進められ、情報の共有化が推進される傾向にあります。そのことで私たちは、人類共通の文化、共通認識を得ている、という幻想をもちやすくなっています。そして、これは何も異文化間の問題に限られません。同じ民族であっても個人により、理解の幅や深度は異なるはずです。いったい他者との相互理解はいかにして可能になるのでしょうか。
 モーレイは、文学における翻訳の問題をカラフルなブックペインティングを通じて提示しながら、見る人に文化の差異、個人の差異、相互理解、といった様々な問題に思いをめぐらせてほしいと願っています。




 今回の展示は、日本でのモーレイのはじめての個展となります。なお、初日9月11日6時より、この機会に初来日した作家のスピーチがありました。




出品作品

1. 森鴎外「雁」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

2. 夏目漱石「こころ」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

3. 芥川龍之介「羅生門」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

4. 谷崎潤一郎「卍」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

5. 横光利一「上海」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

6. 川端康成「雪国」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

7. 三島由紀夫「愛の渇き」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

8. 安部公房「砂の女」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

9. 大江健三郎「万延元年のフットボール」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

10. 村上龍「限りなく透明に近いブルー」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

11. 遠藤周作「侍」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

12. 吉本ばなな「キッチン」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm

13. 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」2004
アクリル・キャンバス
36 x 26 cm